今年8月22日 新潟にて剣道六段に昇段できたことは、ひとえに日頃皆さんと共に稽古に励めたからこそ、また応援してくださったからこそであり、まずはお礼を述べたいと思います。ありがとうございました。
よく最近
「六段取ってから技が冴えたね」
などの言葉をいただくようになったのですが、実は違うのです。どういう事かを申し上げます。
昇段審査とは、試合をするわけではないのですが、もし3人の審判がいたとすれば、3人共「パッ」と旗が上がるような文句の付けようのない研ぎ澄まされた技が絶対条件になるのです。その技は、偶然に当ったようなものではNG。一足一刃の間合いから互いに攻め合い、そのストーリーがあって、必然的に一本となるもの(剣道界では理合という)でなければならないのです。その技の探求のため稽古に励むのですが、なかなか探し出せないのです。私の場合、足の運び・攻め(技を仕掛ける直前の足の動き)を感じとれたのは、本番4日前、さらに手の内(竹刀のにぎり方)を感じとったのは、実に本番直前の2日前(最後の練習)だったのです。ですから私は審査が終ってから変ったのではなく、審査直前に変ることができたのでした。しかし、人の目には六段という自信で変ったんだと見えるのでしょう。
今想えば、探し求めているものをきっと見つけられる、絶対見つけてやると信じて、突き進んだ結果だったんだなぁと考えます。要するに、最後の最後まであきらめない事が大切であることを今回の審査で学ぶことができたように感じます。
もう一つ想うことは、私の立場についてです。私が今回幸運に昇段しても、私より上段の先生や、私など到底勝てない方々は、県内に、またこの界隈にもまだまだ大勢いらっしゃるわけで、私が今回の昇段で極めて偉くなったわけでも何でもありません。人間は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らずなのだから、偉い偉くないなんて簡単に言えないのですが、あえて言わせていただくと、子供が習い始めてから剣道のすばらしさに出合い、30才を過ぎてから自らも始められ、やっと二、三段になったような方々の方が断然偉いと思います。私は、たまたま小学生の時に出合うことができただけのことで、30才を過ぎてから始めようとは、到底思えなかったはずです。
これからも、子供達の目標・憧れになれるよう精進することが我々大人の使命であることを肝に命じ、角張らず、水曜会の円のように丸く皆で稽古に励みたいと思います。
【生涯学習情報誌 フォンズ】
(第22号 2004年11月25日発行)に掲載されました
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